QHHT- Space of Presence

QHHT量子ヒーリング催眠療法士のブログ

悟り

「悟ったらどうなるのですか?」エックハルト・トール

www.youtube.com

※約9分の動画です。”エゴ”をとてもわかりやすく語ってくださっています。当たり前のようで忘れがちなこと。今に生きること。今にしか生きられないこと。多くの方に見てほしいなぁ〜!

_________________

 

質問者:「悟る」ってどんな感じですか?

エックハルト・トール:いい感じですよ。

質問者:私は、自分が何をやっているのか知る必要があるんです。自分が何をしているのか、悟ったらどうなるのかを理解して、精神的なプロセスを乗り越えていく必要があると思っています。

エックハルト・トール:「悟り」を探求する動機はさまざまにあると思います。あるものは、他に比べて効果があります。

しかし、よくあることですが、エゴによって動機づけられた「悟り」の探求は危険を伴います。

エゴは、今持っているもの、あるいは、すでに達成したことに対して不足感、不満を抱き、また、違うものに気を移し、これも満足できない・・・とやり続けます。エゴのよくやることです。

 

そして、エゴは「悟りの境地を開く」という可能性を聞きつけて、その矛先を「悟り」へと移していくのです。

 

「これは今まで求めてきたものよりちょっとまともそうだ・・・。今までのものでは私は満足できなかったんだから、今度はこれにしてみよう!」

 

そして、エゴは当然のことながら目的を作り出します。今までも目的を作ってきたように、目的を作ってそれを達成しようと思うのです。今まで作った目的が達成されようが、そうでなかろうが、満足いくものでなかったとしても、エゴはまた目的を作るのです。

 

聞いたことが在るかもしれませんが、こんなことわざがあります。

「不幸には2通りあるひとつは、望んだものが得られない不幸。もうひとつは、欲しいものを手に入れた不幸」

 

エゴが主導権を握っていれば、そのどちらかになります。エゴは、望みが達成されても満足できず、達成できなかったら他のことを探して、それならなんとかなるのではと思うわけです。そこで「悟り」が絶好の選択肢となるわけです。

 

フェラーリを手に入れても満足できなかった。次にランボルギーニを手に入れてみた。それでも納得いかなかった。他のこともやってみたが満足できなかった」

「でも、『悟り』というものがあるのか・・・これに向かってみよう!でも、『悟り』って一体どういうことなのか知らないといけないな・・・。『悟り』を得るために何をどう頑張ればいいのか知っておかなくては・・・」とエゴは思うのです。

 

「間違っちゃいけないし・・・。それを達成した暁には『私』がいなくなってしまうかもしれないし・・・。もしかして、自分が消えてなくなるしか達成の道はないのかもしれない。こうなってくると、本当に手にしたいのかわからなくなってきたな。そうだ!エックハルトにこのことを質問してみよう」

f:id:QHHT:20170917141355j:plain

誰も悟らない、あなたは悟ることが出来ない

 これらに加えて、私がみなさんにお伝えできることは、「悟り」はあなたのエゴを満たしてはくれないということです。残念ですがそういうことです。

エゴは、何かが現れ出るために、あなたのマインドの中で幻想、究極的なフィクションとして認識されている必要があります。ですから、そういう意味からも、実際には誰ひとりとして悟ることは出来ないと言えます。あなたは悟れないのです。

 

しかし、そこから抜け出せばそれは現れます。つまり、「悟り」というのは到達できるものではないのです。

私は「悟りの境地に至った」とか「私は悟っている」とは思っていません。先ほど「気分がいいものだ」と言いましたが、それは今、気分がいいのでそう言ったまでです。私がわかるのはそれだけですから・・・。

 

ですから「私は悟った」と主張することは、究極的にいうと正しい表現ではありません。なぜなら、それを言っているのは、そう主張しているのは誰なのか、ということになるからです。ですから、究極的に言うと、あなたは悟ることができないと言えます。

 

しかし、あなたが「人」としてはつかの間の存在であるということを理解し、「私・自我」という感覚なくなってきたら、突如として、他の何かが現れ出てくるのです。気がつかなかったかもしれませんが、それはすでに今までも在ったものです。

それは覆い隠され常に見落とされていたものです。現存する意識は、すべての体験にあって常に見過ごされてきました。あるときには気がついたことがあったかもしれませんが、それは見過ごされてきたのです。なぜなら、催眠的な性質のある知覚の世界、特にマインドの世界が圧倒的な勢力を持っているために、すでにあなたに内在している本質が見過ごされてしまうからです。それは今までも在り今も在り、これからも在り続けるものです。

ですから、いわゆる「悟り」の探求が永続的な満足感を得たいという動機に基づいているとしたら、それはうまくいきません。

スピリチュアルな探求をする修行者の中には、そうとも知らず何年も何年も、思考としてしか存在しない実際は存在しない「未来」と呼ばれるところに「悟り」を投影している人々がいます。

「未来」というのは、あなたの頭の中の思考としてしか存在しません。「未来」を見た人、触れた人は一人もいないし、誰も「未来」にいることはできません。人生は常に「今」なのです。「未来」はありません。

苦悩を超えた在り方へ~「自由・解放」の探求

ですから、あなたが未来のある状態を探求しているとしたら、それは誤解です。もしあなたが未来に「悟り」を求めているとしたら、その探求そのものが邪魔になってしまうのです。

しかし、「悟り」の探求には、他の動機もありえます。でもその場合「悟り」という言葉ではなく、「自由・解放」という言葉を提案したいと思います。そうなると、何かより満足のゆくものを見出そうとする動機ではなく、「苦しみからの解放」がその動機となっていきます。

つまり、「悟り」の探求への動機はもうひとつあり、私は「自由・解放」という言葉がそれにふさわしいのではと思います。

キリスト教の用語で言うと「救世・救済」という言葉がそれに近いと思います。あなたの人生において、苦悩が多すぎるようだったら、「苦悩を超えた在り方があるということを理解したい。それを何とか知りたい」と思うことも、「自由・解放」への動機としてよいものだと思います。

 

つまり・・・「ついに悟りの境地に至ったら、私は何を得るのでしょうか?」の答えは、「その質問をした人はそこに存在せず、それを体験することもないだろう」ということです。

by エックハルト・トール

【出典: VastStillness.地球人のためのスピリチュアルレッスン

vaststillness.com